衆議院と参議院、なぜ日本の国会は2つに分かれているのか

1889年、明治時代の日本。西洋列強に追いつこうと必死だった日本は、ある重大な決断をしました。それは、アジアで初めての近代的な議会を作ることでした。

しかし、その議会には奇妙な特徴がありました。選挙で選ばれる「衆議院」と、貴族たちが集まる「貴族院」。なぜ、議会を2つに分けたのでしょうか?

「貴族院?貴族って、お殿様とかのこと?」

その通りです。公爵、侯爵、伯爵...まるで中世ヨーロッパのような称号を持つ人々が、日本の政治を動かしていたのです。この不思議なシステムの裏には、日本が近代化を急ぐあまりに生まれた矛盾が隠されていました。

1889年——アジア初の憲法と議会

明治22年2月11日、東京。雪が舞う中、明治天皇は大日本帝国憲法を発布しました。伊藤博文をはじめとする政府首脳たちは、緊張した面持ちで式典を見守っていました。

「これで日本も一等国の仲間入りだ」——伊藤博文の胸には、誇りと不安が入り混じっていました。なぜなら、この憲法と議会制度は、西洋のモデルを真似しながらも、日本独自の「仕掛け」を組み込んだものだったからです。

帝国議会の構造——権力のバランス装置

天皇 神聖不可侵の存在 帝国議会 貴族院 構成員 ・皇族(天皇の親戚) ・華族(公・侯・伯・子・男爵) ・勅選議員(天皇が選ぶ) ・多額納税者 衆議院 構成員 ・選挙で選ばれた議員 (ただし投票できるのは) ・25歳以上の男性 ・直接国税15円以上

この時、投票権を持っていたのは全人口のわずか1.1%。ほとんどの国民は政治に参加できませんでした。

明治政府の計算

「民衆の声も聞くが、最終的には天皇と貴族がコントロールする」——これが、急速な近代化を進めながら、伝統的な権威も守りたかった明治政府の本音でした。

貴族院——エリートたちの砦

貴族院の議場は、まるで別世界でした。燕尾服に身を包んだ華族たちが、優雅に議論を交わす。しかし、その優雅さの裏には、冷徹な権力闘争がありました。

「えー、それって不公平じゃない?」

今の私たちの目から見れば、確かに不公平です。しかし、当時の世界を見渡せば、これはむしろ「普通」でした。イギリスには貴族院(House of Lords)があり、プロイセン(ドイツ)にも似た制度がありました。

明治の指導者たちは考えました。「西洋に認められるには、西洋と同じシステムが必要だ。でも、急激な民主化は危険だ」——その妥協の産物が、この二院制だったのです。

🎩 貴族院の特権

  • ・終身議員(一生議員でいられる)
  • ・世襲議員(親から子へ地位が継承)
  • ・衆議院と対等の権限
  • ・予算案以外はすべて拒否権あり

しかし、この制度には致命的な欠陥がありました。時代が進むにつれて、「血筋」で決まる貴族院と、民意を代表する衆議院の対立が深まっていったのです。

1946年——廃墟からの再出発

1945年8月15日、日本は戦争に敗れました。東京は焼け野原となり、帝国議会議事堂だけが、まるで過去の亡霊のようにそびえ立っていました。

GHQ(連合国軍総司令部)のマッカーサー元帥は、日本の民主化を命じました。その中で最大の課題の一つが、貴族院の廃止でした。

「貴族院?そんな時代遅れのものは即刻廃止だ」——GHQの若い将校たちは口々に言いました。実際、GHQの最初の案では、議会は衆議院だけの一院制にする予定でした。

しかし、ここで予想外の展開が起きます。日本側が二院制の維持を強く主張したのです。

日本側の主張

「我々は戦争という過ちを犯しました。一時の熱狂に流されて、冷静な判断ができなかった。だからこそ、慎重に議論できる二院制が必要なのです」

この主張には、説得力がありました。ナチスドイツも、議会の暴走から独裁が生まれました。冷静な「第二の目」が必要だという考えは、GHQにも理解されたのです。

参議院の誕生——「良識の府」という理想

1947年5月3日、日本国憲法が施行されました。貴族院は消滅し、新たに「参議院」が誕生しました。

🔄 革命的な変化

  • ❌ 身分による議員 → ⭕ 国民の選挙で選ばれる
  • ❌ 男性のみ → ⭕ 女性も選挙権・被選挙権
  • ❌ 天皇主権 → ⭕ 国民主権
  • ❌ 制限選挙 → ⭕ 普通選挙

参議院は「良識の府」として設計されました。衆議院より長い任期(6年)、解散なし、半数改選——これらはすべて、冷静で長期的な視点を持つためでした。

参議院の独自設計

任期6年 衆議院の1.5倍 じっくり腰を据えて 政策を考える 解散なし 政権の都合で クビにならない 独立性を保つ 3年ごと半数改選 急激な変化を防ぐ 継続性を保つ 経験が蓄積される 良識の府 熱狂に流されない 冷静な判断

「でも、貴族院をなくすなら、衆議院だけでよくない?」

鋭い質問です!実は、当時もその議論がありました。しかし、日本は二院制を選びました。なぜでしょうか?

なぜ二院制なのか——民主主義の安全装置

1946年の憲法制定議会で、ある議員はこう発言しました。「我々は熱狂の恐ろしさを知った。『鬼畜米英』と叫んで戦争に突き進んだ。二度とあの過ちを繰り返してはならない」

二院制維持の理由は、単純明快でした。

1. 慎重な審議

一度の熱狂で決めるのではなく、二度考える。衆議院で可決しても、参議院でもう一度冷静に議論する。

2. 暴走の防止

ヒトラーのような独裁者が現れても、二つの議院があれば、どちらかがブレーキをかけられる。

3. 多様な民意

選挙の時期が違えば、民意も変わる。3年ごとの参院選で、最新の民意を確認できる。

4. 長期的視点

目先の人気取りではなく、10年後、20年後の日本を考える。それが参議院の役割。

世界を見渡せば、G7(先進7か国)のうち5か国が二院制を採用しています。大国ほど二院制が多いのは、偶然ではありません。

世界の議会制度

二院制の国

約80か国

アメリカ(上院・下院)

イギリス(貴族院・庶民院)

ドイツ、フランス、イタリア

カナダ、オーストラリア等

一院制の国

約110か国

中国、韓国、トルコ

北欧諸国(スウェーデン等)

ニュージーランド

小国が多い

なぜ?

大国・連邦国家:

多様な意見の調整が必要

小国:

迅速な意思決定を優先

理想と現実——「良識の府」は機能しているか

しかし、参議院は本当に「良識の府」として機能しているでしょうか?批判の声も少なくありません。

🤔 参議院への批判

  • 「カーボンコピー」問題
    衆議院と同じような議論を繰り返すだけ。独自性がない。
  • 政党支配
    結局は政党の指示通りに投票。「良識」より「党議拘束」。
  • 選挙制度の問題
    タレント候補が当選しやすい。本当に「良識」があるのか?

2013年には、参議院で否決された法案を衆議院が再可決するという事態も起きました。「ねじれ国会」と呼ばれ、政治の停滞を招きました。

「じゃあ、参議院っていらないの?」

ちょっと待ってください。2025年の参院選が、その答えを示してくれました。

2025年参院選——二院制の意味を再発見

2025年7月20日の夜、開票結果が明らかになると、多くの人が気づきました。「参議院があってよかった」と。

歴史的瞬間が証明したこと

  • ✅ 衆議院とは違う民意が示された
  • ✅ 与党の暴走にブレーキがかかった
  • ✅ 少数意見も国政に反映される道が開けた
  • ✅ 「話し合い」の政治が始まった

もし一院制だったら、与党は今も強引に法案を通し続けていたかもしれません。参議院という「第二の関門」があったからこそ、立ち止まって考える機会が生まれたのです。

ある政治学者はこう語りました。「貴族院から参議院へ。身分制から民主制へ。その変遷は、日本の民主主義の成長そのものです。そして2025年、参議院は初めて本来の役割を果たしました」

「なるほど!二院制って、民主主義を守るための仕組みなんだね」

その通りです。完璧ではないけれど、権力の暴走を防ぎ、多様な意見を反映させる。それが二院制の本質なのです。

まとめ:なぜ2つの議院が必要なのか

二院制の歴史が教えてくれること

  1. 1. 過去の教訓
    明治の貴族院は時代遅れだった。でも「慎重に議論する」という理念は正しかった。戦争への反省から、その理念を民主的に実現したのが参議院。
  2. 2. 民主主義の成熟
    身分で決まる貴族院から、選挙で選ばれる参議院へ。これは日本の民主主義が成長した証。
  3. 3. 権力の分散
    一つの勢力が暴走しないよう、チェック機能を持たせる。これは世界の民主主義国家の知恵。
  4. 4. 2025年の証明
    批判もあった参議院が、ついにその存在意義を示した。多様な民意を反映し、対話の政治を生み出す装置として。

1889年の貴族院設置から136年。日本の二院制は、時代とともに進化してきました。そして2025年、新たな段階に入りました。

それは、単なる「チェック機能」を超えて、「対話と妥協」を生み出す装置へと変貌を遂げたのです。民主主義に完成形はありません。でも、少しずつ良くなっていく。二院制の歴史は、その希望を教えてくれます。

次の章では...

戦後日本政治の基本構造「55年体制」の誕生と崩壊を追います。なぜ自民党は38年間も政権を維持できたのか?その秘密に迫ります。

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